韓流ブームの一方で歴史問題や竹島問題など何かと問題の多い日韓関係、でも、公害環境の分野では市民レベルでの交流が着実に進んでいます。
この8月26日、27日の2日間、ソウルで、公害環境裁判に取り組んでいる弁護士を中心に、公害患者、環境運動家、研究者などが集まって、公共事業による環境破壊など両国で共通する課題を取り上げた活動交流などを行う、「第2回韓日公害環境問題交流シンポジウム」が開催されます。日本側の公害弁連と環境法律連盟、韓国側の環境法律センター、環境訴訟センター、「民弁」環境委員会が共催です。日本からは弁護士30名をはじめ50名近くが参加します。大規模干拓が問題となっているセマングム干拓工事現場や高速道路を撤去して川の復元を行っている清渓川復元現場などの視察も計画されています。 3年前の第1回シンポ以後、日本でも韓国でも裁判や運動の新たな前進が見られます。会員数10万名近くの環境NGOの誕生など、韓国の環境運動の盛り上がりは目を見張るものがあります。 今回も、新たな出会いと夜遅くまでの語らいなど、大いに刺激を受け、日韓の連携を深めたいと思っています。 結果はまた報告させてもらいます。
敗戦の時
1945年8月15日正午に小学校で重大放送があるので連絡があった、その日は在郷軍人査閲練習で学校は休みでしたが母親に連れられて玉音放送を聞きましたがラジオの音が雑音のため良くわからなかった。その場に座って泣いていたように思う、「ただ今から天皇陛下の玉音を放送いたします」これには驚いたらしい、天皇は雲の上の人であり、その声を聞くことはできない時代であった。それが国民へ向けてのラジオ放送である、直立不動で聞き「耐えがたきを耐え、偲びがたきを偲び」ポツダム宣言を受け日本は負けた。 私は、母親が帰りながら小さな声でお父さんがかえってくると言ったの言葉をおぼえている。 お父さんの事では3年の夏{柿ノ木から落ちる前}に学校から帰る途中に友達と遊んでる時、郵便局の人に電報を渡され「山形(有漢)のおじいちゃんが死んだヨ、早く帰ってお母さんにわたして」と言われ、家に帰るとお父さんが死んだといって母に渡すと「チチシススグコイ」と電報には書いてあり、急に母は泣き出し、その電報を持って下の家「辰巳屋」のおじさんの所に走っていった、この頃、父は3回目の兵役で九州、宮崎県都城の弾薬庫を守っていた。 悪餓鬼 5年生の終り、12月から1年2ヶ月振りに学校にゆくことになったが勉強についてゆけず、算数,理科、ロ~マ字などが特に苦手でその時間は「蛇」を持ち込み教室に放す、カエル、ミミズ,大きな百足。蜂やアブを飛ばすなどで先生を脅し、バケツに泥水を汲み教室に流す、どんなに怒られても平気でイタズラして勉強は6年を卒業するまで机にむかった覚えがない、よく卒業さしてくれたと思っている。 学校から帰る途中の道端に炭小屋の跡があり、その中に籾殻を入れてあり、遊ぶには絶好の場所でした。ここで思い切り走りながら空中回転の練習をする、首から落ちても籾殻なので怪我がないので1週間で全員が出来るようになる。次は地上空中回転を教えていた。 教え方で二つ年上の[下田の節ちゃん]と喧嘩になる。体も腕力も違う相手に夢中で右腕に噛り付き放さなかった。歯が腕の中に食い込み血が吹き出したが相手が泣くまで放さないでいた。大きな声で泣き出したが怖くて、離したら負けると思い大人が飛んでくるまで放さなかつた。血が吹き出し周りの子供も一緒に泣いていた。畑仕事をしていた「立石のおじさん」が止めに入り噛むのを止めた。中学に入っても悪餓鬼は益々ひどくなり、服装は当時流行っていた六高の学生と同じ格好して、帽子は国民帽を二つ折、その上に靴ずみを塗りテカテカにして白線を二本縫いつけ黒い長い鍔に取り替え、白いシャツに黒いズボン、腰にタオルをさげて高下駄で登校していた。 写真:筍と古釜
写真「雲海と我が家」
私が小学校に入学した時1943年で第二次大戦の激戦中で成人男性はすべて兵隊にいっていて老人と女性、子供たちが生活をしていた時代でした。 それでも校庭には、チャーチル(英国首相)とルーズベルト「米国大統領」の藁人形を作り在郷軍人「傷痍軍人」の掛け声で婦人(国防婦人会)学童「小学4~6年」は竹やりを手にして藁人形に向かって大きな声で、突け突け、引け引け、突っ込めと走っていました。 其の頃の学童は勉強をするより毎日が塊根と軍事訓練が日課でした、時には「在郷軍人査閲練習の日」があり校庭に集まり親達の猛練習を小陰から覗いていました。小学生全児童は神社に向かってラッパの音とともに、行進、駆け足をする、それが終わると山に入り炭小屋から炭俵を広い道まで運ぶ、又、田植えの苗についているずい虫取り、等をやりました。 防空訓練は頭に防空帽を被り、足にはゲ~トルを巻き小さい子から順番に防空壕に入る練習を何回も繰り返しておこないます。学校や診療所など白い建物には黒い墨[釜戸の煤]を水で溶かし混ぜ合わせた物をべたべたと塗りたてて米軍機から攻撃を守るものと信じていました。 家庭では夜になると電球に紙を巻きつけ、上空から見えない工夫をしていました。空襲警報のサイレンは学校にあって鳴らす役目をしていた、炭焼きの火は消すことができなくどうしようもなかったようだ、蒜山で炭焼き中に爆弾を落とす例があった。思い出と言えば、弁当の時間で、冬などはスト~ブで芋を焼く、餅を焼くそして皆で食べたこと、学校からもらった種で農作物の品評会があり運動場には白菜、大根、聖護院大根など並ぶ中で私の品が「大根の部」で2等賞になり、生まれて始めての賞でした。 小学生低学年が家で出来る手伝いは、水汲みと風呂焚き家畜(牛、ウサギ、鶏)を飼うことでした、水汲みと言っても今のように栓を捻ると水がでるのと違い、大平山からの湧き水なので水汲み場が遠く急な坂道を背丈と同じぐらいの水田子[桶]を天秤棒で担ぎ、何回か五右衛門風呂釜と水瓶に運ぶのも日課でした。近くに水車小屋かあり、6軒が共同で米搗きをしていたので当番の時などには水を見にゆき、その水車小屋の上にあるのが「長宗池」、何故か私はこの池が大好きだった。 1945年の秋のことでした、家の前には大きな柿木(御所柿)がありその木に登って下で待っている子供に柿を取って落としてやるのが学校帰りの日課でした。 其の日、家には大阪からお産のために実家に帰っていた義姉が寝ており、その他は家から500米程離れた所で稲刈をしていた、私は得意げに木に登り赤く大きく熟れた柿を見つけ、手を伸ばし柿を取ったと思った途端に、右手の小枝も右足の木も枯れ木であつたため、同時に折れ柿を手にしたまま10米下に落ち途中下の家の便所屋根を壊しながらもう一度大きく宙に舞うようにして下のコンクリ=トに叩きつけられた。 私が気付いた時は戸板に乗せられ下市の折骨院に運ばれる途中で、茶堂を過ぎた所に毒蛇「ハミ」が出て戸板がゆれたことを覚えている、治療については女の先生でしたが右足の根っ子がぶらぶら、又足の腿肉はちらばっていた足が固まって歩けるようになるまで気長く親切に冶療を続けて頂いたことが良かったと、今思う、それにしても、小学校の3年の秋から4年の冬まで1年2ヶ月、学校は休むといゆう大きな冶療でしたが、敗戦の直後とは言え、勉強の遅れは人生にも身体的にもその後に響くことになった。 怪我とその後 敗戦の年(1945年10月21日)門先にある大きな柿ノ木から落ち大怪我をする。その時から1年2ヶ月学校を休むのですが、不思議に思い出せない。 柿の木から落ち気を失って戸板に乗せられ中山骨接医院に行く途中でした、その後どんな治療をしたのか、いつ家に帰ったのか、どんなリハビリをしたのか、元気になって学校にいけるようになったかも覚えていないのです、覚えているのは腿の肉がバラバラになって皮と骨の間には何もなかったことと、うどん粉と酢をまぜて痛んでいる所に貼る、乾いたら貼る、そして取り替える一日に何回も繰り返す、貼る時はヒヤリと冷たくても我慢ができるのですが、それお取り替えるのは痛く、大小便やシップの取り替え、傷めた右足を動かす時など「待ってナ、動かすのまってナ」とあまりの痛さに訴えていたことを覚えている。 小学校5年の夏は、まだ、怪我のため学校には行けないが、親父の実家(山形)にはよく行って遊んでいた。有漢川「弥勒淵」で大好きな魚捕りをした、大きなタライの中で座りシップ腿をかばいながら逃げる魚を追ううちにタライガひっくり返り包帯を巻いたまま水のなかえ頭から落ちたことなど覚えている。その後も近所の子に背負われて川にゆき、夏休みが終わるまで山形の家で静養し、この頃から自分の力で歩き、遊ぶ自信をつけたと思う。 私は、今年7月からあおぞら財団の専務理事をしています。本職は弁護士、西淀川公害裁判に携わったことから、あおぞら財団に関わることになり、現在は週2~3日は財団事務所に通っています。諸外国では弁護士が環境NGOの役員を務めることは結構多いようですが、日本ではあまり例がなく、やって見たいこと、やりたいことは多くても、何ができるかはこれからです。現実の公害発生や環境破壊に対する裁判等にも取り組みながら、環境再生、地域再生の仕事もと少々欲張りですが、新たな挑戦に意欲を持って取り組んでいます。
私を知る人の中に{常用の上の勇ちゃん}とか(君さん)とそれぞれの呼び方をするが近所の人が今でも(勇ちゃん)であり、それ以外は森脇君雄ですが、もう一つ生年月日に問題があるのです。私のすべての経歴には7月10日が通用しているが戸籍謄本の上では7月17日になっている、どこが間違えたのか、誰が間違えたのかを調べてみると、小学校入学時に7月10日と当時の上有漢村役場が間違えそれを私も永い間、今でも続けているのです。海外渡航の時のパスポートのみが17日以外は認めてくれません。 1-2歳頃の話は父母から何も聞いていません。しかし岡山の政子姉さんから聞いた話では、生まれた場所は奥の納戸の部屋、首に臍の緒が絡み生まれるまで時間がかる、暗くなって、うぶ声をあげたのでひと安心。大きさは普通の児で生まれる。当時は産婆さんが居ないので,近所のお婆さんが立会う。臍の緒を長めに切ったので出べそと思っていたようです。五月節句などの祝いは今までの姉妹でしてもらった事がない程派手なもので羨ましく思っていた。父が軍隊に行き母は畑仕事で忙しく学校が終わると私の子守りをしていた。母一人の時は、家の中の柱に紐で括り、畑から度々見に帰り障子に指で穴をあけ元気な様子を見ていたそうです。 田植え時期に覚えているのは牛の上に桶を乗せ、その中に入れられていた?そして泥田にタライを置いて中で遊ばして農作業をしていた。奥切れ(土地名)田の中に清水が沸き出る場所があり、又、そこは深い泥田で米が獲れずメダカが泳いでいた。ここでは桜の木に長い紐で括られていた。その木には(サクランボ)が実っていた。 我が家は母屋(藁ぶき)蔵、(瓦ぶき)納屋(瓦ぶき)で130年程度経過している古い家屋でした。母屋には床の間、中の間、表の間、そして奥の間、納戸、囲炉裏の間。があり、中庭には冬でも氷の張らない水瓶、ほうろう釜、二つの火炊釜と木で出来た足ふみ臼(米、餅などを搗く)、手引き臼がありました。五え門風呂(注)は入り口に竹を並べて敷きしめられ、その下が便所。風呂水もその中に流されていて、それを畑の肥料にもしていた。納屋は2階建で下側の中に牛が飼われていた、離れに2部屋あった。 蔵は米蔵と蚕などを飼う所と乾燥場に分かれていた。冬には吊るし柿とかき餅が二階の窓際に吊り下がっていた。いたずらすると家の真ん中にある大黒柱に括られるか?大かな扉のある蔵に入れられた。大黒柱は泣くだけ、蔵は始め暗いが、暗さには直ぐなれるし楽しみがあった。上にある吊るし柿を食べながら藁で床を作り、漫画や雑誌が読めた。 床の間には神仏が別々に祭られており、鍵のかかったタンスがありその中に戦前は大小の日本刀が揃いで5本ほどあった。そのうち2本の刀を何回も持ち出し、近所の子供たちと一諸に竹薮で試しきりして刃をバラバラにしたのを親に見つけられ蔵に一日中閉じ込められた。あとの刀は戦時中に軍部に取上げられ、未だに返しては呉れない。小刃を1本は家に置き、死亡した時に胸の上に置く習慣があった。また、タンスから女性の人体解剖本を取りだし蔵の中に隠していた。 日中戦争が1937年に始まり、36年には父親は満州兵役している。私が2歳の時で島子姉さん(長女)16歳で倉肪に就職していた?政子姉さんは12歳、正兄は7歳。は母一人で家族を守っていた。 政子姉さんは小学校、尋常高等学校を卒業し体が小さく、弱いので井原町で被服工場に3年間でミシン一台貰う約束で働きに出る。小遣いとして70銭を貰い貯まったお金で映画を見るのが楽しみと話してくれた。 あおぞら財団理事長の森脇君雄です。今年、古希になります。 夢追い続けた男のロマンを読んでください。 (この絵は自画像です) --------------- 私の生い立ち 私の生まれは、中国地方の、備中高梁から4里程有漢川に沿って山奥に入ると(有漢)と言う地名の村がある、その村の中心から1里ほど坂を登ると大石部落に着く、この部落には鎌倉時代の石碑や京都の地名が多く出て来る、石碑を見ながら更に奥に登ると太平山の中復で一番上にあるのが常用(ジョウヤ)の上「屋号」、そこが私の生まれ故郷の早川家です。 大石の地名は大きな石がめだって多く良質な石材「花崗岩」で鎌倉末期の仏教と結びつき石造美術品が残されており、平安時代の書物「和名妙」の中に大石郷と記されている。 この部落は大石の姓が多く、早川の姓は「常用の上と中」2軒があるのみで、何れも屋号があり氏名を呼ぶより、屋号を頭につけて人の名前を呼ぶ習慣がある。例えば私を呼ぶ時には「常用の上の勇(イー)ちゃん」とよばれていた。実家は、海抜500米程の高さがあり、天気のよいときの朝は、眼下が一面、真っ白で四つ畝山の遥か彼方に中国山地、そして大山や蒜山のすばらしい山々を目にしながらの雲海は格別の景色です。 又、実家の西側に高雲寺跡かつては保月山金光寺と呼ばれ真言律宗の本山奈良西大寺末寺であり、備中二ヶ寺に記されていたが、その後、寛政年間に真言宗臍帯寺の末寺に変わり元冶元年に焼失しているが、保月二重の塔、三尊板碑、六面石撞、破損板碑などあるがそれは嘉元三年に当代窟指の名工(井野行恒)名作で国の重要文化財に指定されている。 早川家は3代女系家族が続いており、母「あやの」も7人兄弟の末っ子で生まれながら跡取りになっています。(22歳で宗正さんと結婚1男二女が生まれる、宗正さん死亡)そして(36才で8歳年下の森脇幸之助と2度目の結婚1男がうまれる。) 1935年7月10日(7月17日?)に幸之助とあやの、の間で生まれたのが森脇君雄(早川勇?)です。私の誕生日と名前が2つあるのが不思議で今でも不便な時もあります、後で両親に聞いた話ですが{早川家、森脇家}の跡目問題のもつれが原因でした。(森脇君雄で母親に無断で7月10日に父親が戸籍登録をし、母親は家族みんなで相談して決めた早川勇の名前で産後、歩けるようになって7月17日に登録する、)この争いは私が24歳になるまで続いていましたが、遠く離れて生活して行くうちに家族の愛情の大切さが分かり法務局にゆき書類を集め父親に入籍を進めました、そうして、森脇幸之助を早川幸之助と改め{早川家}に婿入りし、早川正(義兄)を相続人に決めることで決着、私は父親のことも考えて実家の森脇の姓を継ぎ、森脇君雄を引きつづくことにした、家系の中に1人だけ{森脇}の姓を名乗るハメになつた。 (つづく) ![]() NPO法人名古屋南部地域再生センターの中井さんです。 名古屋も大気汚染公害の裁判が行われ、 和解後、公害地域再生のために設立されたのが、 名古屋南部再生センター(名古屋あおぞらセンター)です。 中井さんは、あおぞら財団に半年ほど研修に来ていたことがあるんですよ。 名古屋あおぞらセンターでもブログをやっているようですが、ぜんぜん更新が・・・ 広報は難しいですが、お互いがんばっていきましょう~ ![]() ボンジュール♪ あおぞら財団ボランティアスタッフの南聡一郎さんです。 10日に開催された、道路環境市民塾で出された意見をまとめてくれています。 働き者の南さんに拍手☆ 南さんは、鉄道好きで、 「フランス交通政策」を研究しています。 ホームページもあります。 ちょっと照れ屋な南さん、 今度、沖縄に行って二酸化窒素の測定をするそうです。 < 前のページ次のページ >
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